イタリア関連切り抜き帳

イタリアに関係して、ときどき目をみはる出来事・現実に出くわします。イタリアを側面から理解するために、折々に出会った記事などを中心に切り抜きをしていきたいと思います。

 

1‐a.エリツィン機、伊DC9に接触(ラ・レプッブリカ、1999年2月10日)

【モスクワ=g.l.】エリツィンとダレ―マの会見は実現しなかったが、彼らの飛行機同士は接触していた。少々乱暴にではあるが。イタリア空軍のDC9が駐機場に待機中、機体を傷つけられてしまったのである。このため、24時間のモスクワ訪問を終えたダレ‐マ首相は、昨日、別の飛行機で帰国するはめになった。その前夜、アンマンで行なわれたヨルダン国王の葬儀から戻ったボリス・エリツィン大統領機が駐機場に入る際、ちょうどその4時間前に到着し駐機していたイタリア空軍機DC9にぶつかってしまったのだ。尾翼がひどくやられてしまったので、帰国するダレ―マ首相を乗せて飛び発つことができなくなってしまった。昨日12時30分、チャンピーノ空港から12人乗りG−3空軍機が、ダレ―マ首相を迎えに飛び発った。(規定により、公式訪問の際の政府首脳を乗せるのは国営機にかぎられているからだ)

1‐b.訪ロの伊首相専用機〜「当て逃げ」で飛べず〜(日経新聞夕刊、1999年2月10日)

【ミラノ9日=丸山兼也】ロシア訪問中のダレ―マ・イタリア首相の専用機が八日夜、モスクワ郊外の空港の駐機場内で、地上を移動中の別の飛行機に“当て逃げ”されて飛べなくなるという珍事が発生した。首相が帰国する九日になって分かったもので、首相はローマから別の専用機を呼び、予定より数時間遅れで帰国の途に就いた。

 首相機はカラだったためけが人はなかった模様だが、接触の衝撃で水平尾翼が破壊された。犯人は依然として不明だ。タス通信は「ヨルダン国王の葬儀から帰国したエリツィン大統領機が接触した」と報じたが、インターファックス通信社はロシア政府筋の話として「大統領機ではなかった」と伝えた。クレムリンの報道官は伊ANSA通信に対して「真相を究明中だ」と答えた。

 昨年二月のエリツィン大統領のイタリア訪問では、ロシアから持ち込んだ大統領専用車が大きすぎてローマの伊大統領官邸の門をくぐれないという予想外の事態が起こった。なぜか珍事が目立つ二国間関係のようだ。

2.特集・ヨーロッパ新潮流/田中素香「通貨統合の狙いはどこにあるのか」       

  より抜粋(岩波書店「世界」、1999年2月号)

(前略)第二の通貨統合参加のための財政赤字削減努力はまだ記憶に新しい。イタリアやスペインなどの周縁国は通貨統合から脱落した「二級市民」になりたくないと公言し、政労資合意による実質賃金抑制と物価の安定、財政赤字削減のための民営化や果ては「ユーロ税」までを実行に移した。見逃せないのは「問題国」イタリアであって、日本の自民党にあたるキリスト教民主党が日本とほぼ同じ時期に起きた政界スキャンダル事件で弾劾されて壊滅状態となり、既成利害から独立した高級官僚、大学教授出身の「中立型、実務型」の首相をもつことができた点である。これによって年金制度改革や財政赤字削減を断行できた。イタリアの将来への貢献は測り知れない。旧共産党多数派(左翼民主党)は一貫してそれら政府を支持し、九八年十一月書記長が首相に選出された。このプロセスすべてに冷戦体制の終焉という時代性を見ることができる。(以下略)

3.特集・ヨーロッパ新潮流/座談会「『中道左派』政権を選択した欧州」より

  馬場康雄(東京大学イタリア政治史)の談話部分の抜粋

  (岩波書店「世界」、1999年2月号)

1)欧州諸国の政治地図より抜粋

*イタリア―――長期政権の崩壊

 先進国のなかで、政党政治の最も大きな構造的変容があったのはおそらくイタリアでしょう。戦後四〇年以上の間、キリスト教民主党(DC)が中心となって連合政治が展開されてきましたが、その欠陥が、八〇年代から九〇年代にかけて、顕著に露呈することになったのです。

 その欠陥とは、まさに日本の自民党政治が抱えてきたものと共通しているのですが、一つに、真の意味での政権交代が起こらず、政治にオールタナティヴがなかったことです。二つには、多くの政策が議会での討論ではなく、舞台裏での取引やボス交渉によって決められてきたために、ドラスティックな改革ができず、政治の効率が実に悪かった。これに関連して三つ目には、政治全体が非常に不透明で不可視の部分をもっていた。政権与党が権力や地位を利用して官界や財界に自分の勢力を培養し、金脈、人脈として利用していたのです。

 状況が大きく変わるのは一九九〇年代からです。背景には、欧州統合の進展と、冷戦の終結・ソ連の消滅という二つの外的要因がありました。先ほどのようなイタリアの政治に対する批評は以前からあったのですが、この外的要因がなければこれほど急速に政治が変貌することはなかったでしょう。

 その後の展開を追ってみますと、まず九一年に、第二党であった共産党が衣替えして、左翼民主党(PDS)という党に変わりました。翌九二年からは、司法部による革命、すなわち検察官や判事たちが政財官界の要人たちを片っ端から汚職などで起訴しはじめた。それまでイタリアの政治を牛耳ってきた政治階級への不満や批判が一斉に噴き出すという事態になったのです。そこで政党人でも議員でもない実務家のチャンピが内閣をつくり、新選挙法を成立させました。これまでの比例代表選挙に変えて小選挙区を大幅に取り入れて、これをテコに政治を改革しようとしたわけです。

 九四年三月に行われた総選挙を受けて、財界から政界に転じたベルルスコーニが中道右派連合政権(フォルツァ・イタリア+国民同盟+北部同盟)を率いることになります。彼は、経済不況からの脱却、失業削減、リラ防衛といったずいぶんと大袈裟な約束をふりまきましたが、ほとんどどれにも手がつけられないまま、自らの贈賄の容疑と政権与党間の内紛によって政権が瓦解する(一二月)。この頃はリラが暴落し、公的債務の累積残高がGDPの100%以上になるという凄まじい状態で、イタリアは通貨統合にほんとうに加われるのかという大問題が浮上していました。財政赤字を減らすためには、福祉国家の見直しをしなければならないことは明白でした。

 そこに登場したのが、チャンピと同じくやはり非政党人の経済専門家ディーニでした。彼の内閣は、年金改革など財政再建に取り組み、政権出発時の約束をすべて実現して辞任し、九六年四月に総選挙となります。このときに左翼諸政党は、前回の選挙での敗北を教訓に「オリーブの木」という選挙カルテルをつくる。この「オリーブの木」の盟主に担がれたのがプロ―ディです。彼が「オリーブの木」のシンボルとなり、勝利をおさめました。

 プロ―ディ政権を最も苦しめたのは、通貨統合に向けての財政的経済的課題ですが、政界のレベルでは、かつて共産党が左翼民主党に衣替えしたときに、それに反発して結成された共産主義再建党との関係でした。この党は閣外支持の形をとっていましたが、事あるごとに支持撤回をほのめかす。それで何度か辞職寸前に追い込まれながらも、プロ―ディは戦後では歴代第二位の長命政権を九八年一〇月まで運営します。政権の命取りになったのは、一つは共産主義再建党の支持撤回ですが、より重大だったのが、中道主義の結集を目指す政党勢力が陰に日向に「オリーブの木」連合の破壊のために動いたことでした。

 現在は、「オリーブの木」連合内の最大政党であった左翼民主党(九八年二月に「左翼民主主義者」DSと改名)の書記長ダレ―マが、多様雑多な勢力からなる連合政権を率いています。

2)「『中道左派』とは何か」より抜粋

*「社会主義」「社会民主主義」「中道左派」

 ドイツやスウェーデンですと、社会民主主義が党のアイデンティティであり、理念であり、政策方向となっていますね。しかしフランスや、とりわけイタリアの場合には、社会民主主義は、日常の政治用語ではほとんど使われない。

 (中略)

 そこで、「中道」や「中道左派」という言葉で政治をイメージするというのは、実はイタリアがいちばん最初だったわけです。それが最近では、非常に体質の違う国でも使われ始めたということ自体、とても面白いですね。

 本家本元のイタリアでは、その言葉は、九〇年代の政変以前の第一共和制と現在の第二共和制とでは全く意味が違っています。つまり、政党システムの真ん中に巨大なキリスト教民主党があり、その万年与党が社会党などの左翼政党と連合を組むから中道左派になる、という意味でした。現在では、力点は明らかに「左派」のほうにあります。政権の中核は、旧共産党のPDSなわけですから。

 けれども、「中道左派」という言葉は、そうした連合政権の組み合わせの力点や政党の位置を示すだけではなく、現在では、明らかに一種の政策スタンスをイメージする言葉になっている。明らかにサッチャー、レーガン以来の新自由主義というものに対して、あるいは最近のグローバルな市場化の動きに対して、ある程度市場原理を認めながらも、左翼的なものを守るという意味で使っていると思います。

3)「『中道左派』の理念と政策」より抜粋

*福祉国家の見直し

 イタリア共産党は九一年には党名を変更すると同時に、明らかに路線を大きく変えました。一つは広い意味での左翼諸グループへの開放で、もう一つは、財政支出削減のための、イタリア型福祉国家の見直しです。基本的な個別の政策は、他の国の左翼とそれほど違いはありません。

 理念こそが左翼のアイデンティティーです。では左翼のアイデンティティーは何か。イタリアの場合は、人びとが政治のことを考えるときに、右と左というものが強固にあったわけですが、ところが、最近では左とは何なのかだんだんわからなくなってしまっている。数年前に政治哲学者のノルベルト・ボッビオが『右と左』(邦訳、御茶の水書房)というかなり難しい本を書きましたが、これがベスト・セラーになった。左とは何か、右とは何かということをイタリア人自身が知りたがっていることのあらわれだと思います。

 そこでのボッピオの結論は、左とは平等と連帯と公正だというものです。これは、現在のDSの路線ともつながっています。抽象的な言い方ではあるけれども、こうした理念が頑としてあるのは事実です。

 では、現実の基本政策は何をやっているのかというと、何しろイタリアの場合には財政再建が至上命令なわけですから、基本的にチャンピやディーニといった非党派専門家内閣が手をつけた政策の継承です。つまり官僚機構を合理化し、規制を緩和し、浪費型の福祉支出を減らすということに尽きる。ただ、急務の課題としては失業対策、そしてヨーロッパ通貨統合への参加、この二つが挙げられています。

4)「新しいリーダーと党改革」より抜粋

*労働組合からの脱却

 まず、リーダーに注目してみますと、最近の内閣のリーダーはそれまでのリーダーとは明らかに違います。政界トップへの新しいキャリアパターンができてきたようです。おもしろいことに、イタリアで人気のあるリーダーたちは、たとえばナポリ市長で今度労働大臣になったバッソリ―ノ、それからエコロジストでローマ市長に当選したルテッリなど、重要都市の市長から、国民的人気を得てナショナルリーダーになるというルートを辿っている。

 もう一つは、経済実務の専門家からいきなり政界入りするケースです。ベルルスコーニは例外としても、このあいだまで首相をやったプロ―ディも、日本では、一介の素人が市民運動に担ぎ上げられたというように紹介されていますが、彼は実状からかけ離れたイメージで、IRIという国家持株会社の総裁として辣腕を振るった人です。また彼はボローニャの知識人サークルの一員という顔ももっています。ただし現首相ダレ―マはそのなかでは例外的に第一共和制的な人です。つまり、共産党の党内官僚制を順調に掻けあがってきて書記長になり、首相になりましたので。

 イタリアでは、第一共和制の終わりに伴って、旧政党のほとんどが解体してしまいました。ですから、党組織の改革に関していうならば、イタリアの場合はまだ混乱が続いているといったほうがいい。依然としてまだ安定した政党組織ができなくて、小さな政党がたくさんある一つの理由は、長いあいだイタリアの政治を規定していたサブカルチャー的なグループが解体しつつあるということです。カトリック・サブカルチャーも社会主義のサブカルチャーも、かつてほどの凝集力をもっていない。

 また、政党というものの考え方が変わってきたこともあります。ベルルスコーニがつくった「フォルツァ・イタリア」が典型ですが、どれだけ本気かわからないような名前の政党に政治のアマが集まって、運動を楽しむ。それで大きな政党になってしまうという傾向がみられます。見方によれば、「オリーブの木」運動もそうでしょう。ただし、そういう人びとが安定的な党組織を築き上げているとはいえない、という段階です。

 少しここで、「オリーブの木」連合の意義について述べたいと思います。イタリア史上初めて、次期首相候補を明示して選挙運動をした点も画期的ですが、それだけではありません。共産党が多くの新しい勢力を呼び込みたいという気持ちをこめて、左翼民主党に衣替えしたとはいっても、たとえばフェミニストやエコロジストという人々が大挙してこの新党に参加してきたわけではなかった。「オリーブの木」連合ができることによって、広い意味での左翼、つまりドイツやスウェーデンでの社会民主主義的な領域を囲む一つの枠が初めてできた。その意味は大きい。また、これは選挙戦略のためだけでできたものではなくて、市民運動的な動き、ボローニャの左派知識人のサークルの活動などがあって初めて成立した。この点が重要です。

5)「グローバル化に向き合う『中道左派』」より抜粋

*アメリカへの対抗としてのユーロ

 イタリアの場合、グローバル化を「ヨーロッパ化」の問題と読み替えた方が適切だろうと思います。ヨーロッパにおける統合の進展、なかんずく九九年一月からの通貨統合にイタリアが第一陣として加わることが、国家の最大の目標であり、至上命令であったからです。その点で、イタリアの政治はEMU参加という縛りをかけられているわけです。そこにおいては政治党派の違いはほとんどない。旧ネオファシストの国民同盟がマーストリヒト条約に対して批判的であったり、労働組合がマーストリヒト条約の基準を見直せといっていますが、実現性はないでしょう。そういう意味でヨーロッパの縛りは非常に大きい。

 最近のロシアの市場の崩壊や、東アジア経済の混乱については、イタリアの企業などもそこに投資していますので、大きな問題になりうる。そしていまのようにヘッジファンドが国際金融の大きな撹乱要因になることに対する懸念も強い。ただ、その懸念に対して、イタリアの場合はとにかく「ヨーロッパ」に入ってしまえば、大丈夫というのが正直なところでしょう。ですから、何としてでも「ヨーロッパ要塞」のなかに逃げ込もうというのが、この数年の政治の最重要課題であったのです。

 もう少しポジティブな言い方をすれば、ヨーロッパ化という至上命令を一種の「黒船」効果として使おうという意図がよくあらわれています。官僚制が急に能率的になったり、銀行員が急にきびきびと働き出したりするわけはないのですが、「ヨーロッパ化」を持ち出した瞬間にいやでも改革に動き出さざるを得ない。これは現在の中道左派政権にとっては一種の政治資源として大いに活用されています。

 「システムとしてのイタリア」、あるいは「イタリアというシステム」という言い方があります。これは、経済と政治とが独特な形で結びついている、たとえばパブリック・セクターが大きい、経済の運営が政治化されている、中小企業が非常に多い、そういうことを全部含めていう言葉です。「イタリアというシステム」はヨーロッパ化の中で大きく変わりつつあります。

 ここでちょっとつけ加えますと、フランシス・フクヤマが『信なくば立たず』という本の中でイタリアをやり玉に挙げて、信頼に基づかない資本主義経済だと言っているのですが、あれは非常に皮相な見方です。イタリアの場合は中小企業の活力が非常に強いのですが、その活力が何によって保たれているかというと、ふつういわれているような家族の絆だけではない。ローカル・ネットワークというのが張り巡らされていて、そこには地域企業や、研究所、大学、地方自治体などが入っている。これはなかなかの情報収拾力やマーケティング能力を備えていて、テクノロジー水準も高い。そういう土壌から、輸出能力のある中小企業が生まれてくる。こうしたローカル・レベルの活力ある社会的複合体が、イタリア経済を支えているのです。

 ですから、経済のグローバル化のなかでどうやって、そうした歴史的伝統を背負ったローカルなネットワークが生き残っていけるのか、古いものを保ちながら、なおかつイタリア経済全体を現代化することがどうすればできるのかが一つのカギになっている。この点に関してはイタリアの政治家たちもダレ―マをはじめとしてよくわかっているようです。

4.「実相‘99世界経済――伊“背伸び”導入の反動」より抜粋(朝日新聞朝刊、  

   1999年2月10日)

 

 「たった千二百万リラ(約八十万円)の融資が認められないのか」。ローマ郊外に住む経営コンサルタントのパトリツィオ・エルカさん(30)は、顧客の相談に驚いた。

 この顧客は、近くの海岸でレストランを経営し、水上バイクなどの貸し出しもしている。年間の売り上げは三億五千万リラ(約二千四百万円)。業務用キッチンを買い替えるため昨春、銀行に融資を頼んだところ、五年前に三十万リラ(約二万円)の小切手が残高不足で一時支払い不能になったことを理由に、断られた。

 エルカさんは詳細な経営分析をつくり、自分が「推薦者」となって別の銀行を紹介した。何とか融資にこぎつけたのは九月。夏の稼ぎ時は終わっていた。

 

 イタリアの銀行が「貸し渋り」に走り始めたのは、欧州単一通貨「ユーロ」導入の副作用である。

 金利が高かったイタリアは昨年、ユーロ入りのため中核のドイツとフランスの水準に合わせ、政策金利を計2.5%幅引き下げた。民間の貸出金利も下がったのだが、銀行は利ざやの縮小を理由に、中小企業向けの貸し付けを抑えにかかった。経済発展が遅れた南部を中心に不良債権を抱えているうえ、ユーロを機にイタリア進出をはかるドイツの銀行などとの競争が激しくなり、少しでも危険がある融資は避けたいのだ。

 イタリアの通貨供給量(マネーサプライ)の伸び率は、昨年四〜六月は前年同期比10%台を維持していたが、十〜十二月は6%程度に下がった。

 ユーロの副作用はこれだけではない。

 ローマとその近郊でフィアット車を販売するエルコレ・ヤッツォーニさん(44)の店は、今年は売り上げが三割ほど減りそうだ。政府の景気刺激策「中古車買い替え補助」が、昨年七月末で終わったためだ。

 インチェンティーボ(奨励金)と呼ばれるこの制度では、十年以上の中古車を新車に買い替えると、政府が最大二百万リラを補助する。ユーロ参加のため景気浮揚にやっきだったプロディ前政権が、個人消費の刺激をねらって、一九九七年一月に導入した。

 九七年の全国の新車販売台数は、前年に比べ四割も増えた。ヤッツォーニさんの店も、売り上げが1・5倍に跳ね上がり、従業員を三人増やした。

 だが需要を先食いした分、反動は大きかった。昨年十月の全国の新車販売台数は前年同月に比べ23%減った。「客足はさっぱり。打つ手がない」とヤッツォーニさんはぼやく。フィアットは五万人の人員削減を打ち出した。

 かつて「欧州のお荷物」といわれたイタリアは、年金支給年齢の引き上げや度重なる増税で財政赤字を縮小し、ユーロの第一陣参加にこぎ着けた。こうした負担増に耐えられたのは、輸出と個人消費が好調で、経済を引っ張ってきたためだ。だがアジア危機の影響で海外からの受注は減り、インチェンティーボなどの一時しのぎが終わって、個人消費も足踏みを始めた。

 一方で金融機関の貸し渋りや、公共事業の削減など、今度はユーロ導入に伴う痛みが目立ってきた。政府は九八年の成長率見通しを2.5%から1.%に下方修正した。

 ローマ近郊に住むレアレ・ロドルフォさん(36)は、もう四年近く仕事がなく、アルバイトでしのいでいる。職業安定所や求人誌で探しても、三十歳を過ぎるといっきに求人が減る。家賃が安い市営住宅は知人からの「また借り」で、市の立ち退き要求には、妻が妊娠中なのを理由に何とか待ってもらっている。出稼ぎも考えた。だが「家族と離ればなれになるので、できれば避けたい」という。

 全国で12%を超えるイタリアの失業率だが、ベネチアを中心にした北部のべネト州は4.3%。これに対し、南部のカラブリア州は27.3%。それでも人は簡単には動かないので、格差は縮まらない。

 ユーロ導入で、欧州は経済的は国境がなくなった。米国並みの巨大市場のなかでの競争が、欧州経済を強くすると期待されている。だが、それには、ある程度の時間がかかる。イタリアだけでなく、ドイツは税制や社会保障の改革といった懸案がなかなか進まない。フランスも、金融や自動車といった中核企業が、国際的な再編の波に洗われつつある。

 ローマのシンクタンク、グイド・カルリ協会のアウレリオ・マッカ―リオ研究員は「欧州経済には潜在的な成長余力があるが、それには構造改革が必要だ。いまは、改革途上の危なっかしい時期。アジアやロシア、ブラジルなどの危機が再燃すれば、ユーロ経済も打撃を受けて、改革が足踏みする危険がある」と警告している。(ローマ=文・岸善樹)

5.「このミレニアムを生きた著名イタリア人」アンケート結果(コリエレ・デッラ・セーラ、1999年2月14日)

 

過去千年の間に生きたイタリアの著名人の中からイタリア人自身が選んだ著名度ランキング。回答数8564(内、有効回答6833)より、100票以上を獲得した人物の順位

第1位 レオナルド・ダ・ヴィンチ (1737票)

第2位 ダンテ・アリギエリ (533票)

第3位 ガリレオ・ガリレイ (415票)

第4位 ベニート・ムッソリーニ (378票)

第5位 サン・フランチェスコ (253票)

第6位 クリストファー・コロンブス (187票)

第7位 グリエルモ・マルコーニ (175票)

第8位 ミケランジェロ・ブオナッローティ (118票)

第9位 ジュゼッペ・ガリバルディ (103票)

6.「ラウンジ『生活先進国のイタリアに学ぶ』」より(日本繊維新聞、1999年2月19日)

 

日本は我慢の2年間

 伊藤忠商事にはいろんな顔がある。社長の丹羽氏は2001年を目指して「持ち株制」の会社にするという。繊維トップの住江漠副社長は「コアとなる強みの部分を伸ばしつつ、強いカンパニーを目指す」考え、衣料・食品は、生活関連・川下志向の代表的分野とみられている。この中で重要な役割を果たすのが伊藤忠ファッションシステムだ。丸山氏は欧州駐在の経験を生かし、いま提言する。

――現状認識は。

「今、個人、家庭、企業、地域、そして日本が大きく変わりつつある。また世界も情報化、同質化、地球規模のメガ・コンペティションが進行しつつある。成長期は創・工・商は縦につながり、それぞれに役割を果たせばそれなりに生きてこれたが、成熟期では情報・コンセプトを共有した三角あるいは丸い輪のつながりが求められている」

――イタリアにヒントがあると『繊維月報』の中でも語られている。

「当社のブランド・ライセンス・ビジネスも内容が大きく変化している。伸びるブランド、衰退するブランドなどさまざま。感覚的表現になるが、売り場商品値段人件費―を下げないと国際競争力に勝てないと仮定するなら、その間に消費心理はさらに冷え込む。このニ年は厳しい。従って従来の延長線上で効率だけを考えていると自殺行為になりかねない。ライフスタイルは変わっていく。生活先進国といわれるイタリアにそのヒントを見いだせるかもしれない」

――その生活の仕方は。

「教育・就職でいえば、長所を伸ばす。大学でも一流・ブランド志向ではなく好きなことを学べるが、楽しく仕事ができるかという考え。オシャレは一部の金持ち以外はブランド志向ではなく、あこがれはあっても若者はシック、シンプル。アメリカン・カジュアルの影響もあるが、安いのが条件。夏は労働者に認められた26日のバカンスを権利として使い切る。定年は60歳。第二の人生。濡れ落ち葉の日本とは大違い」

――総評は。

「可処分所得は、日本人の60―70%なのに数倍人生を楽しんでいる。イタリア人の生き方をも学びたい。一方、日本人の特技といえば世界にまれな“協調性”。お互いに知恵を出し合いながら、二十一世紀を迎えたい」

7.元・在イタリア大使・堀新助著『不思議の国イタリア〜倒れない斜塔〜』より抜粋(サイマル出版会、1985年版)

プロローグ

バラエティに富む国民性 

 イタリア人の国民性については、多くの識者・評論家がいろいろ分析していますが、私はバラエティという言葉に総括したいと思います。

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 バラエティは、まず地方色となって表われます。

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 イタリア人に、「あなたはイタリア人か」と聞けば、「ノー、シチリア人だ」という答えが返ってくるので、「イタリアにイタリア人はいない」ということになるのです。

 地方根性、郷土愛やお国自慢のことを、イタリア語でカンパリニズモといいます。これは同じカンパニーレ(教会の鐘撞き塔)の鐘の音を聞きながら育った間柄ということです。

 イタリアの就職には縁故採用が多いのですが、これも郷党意識の産物でしょう。一般のイタリア人は国家よりも郷土に対する愛着心や忠誠心が強く、ある調査では、国を思う心20%、郷里を思う心80%と出ています。

個人主義と家族主義 

 バラエティは、個々の人間には個人主義となります。その個人主義が少し枠を大きくすると、家族主義になります。

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 イタリアの家族尊重は、20世紀も終わりに近い現在でも、まだまだ根強いものがあります。なかでも、母親に対する愛着が強く、これをマンミズモ(英語に訳せば、ママイズム)と呼びますが、イタリア人はびっくりしたときにジーザス・クライストとはいわないで、マンマ・ミ―ア(私のお母ちゃん)と呼ぶのです。

 最近まで、イタリアの刑法では、不貞の妻や相手の男を殺すのは家名を守る「名誉の犯罪」として罪が軽くなっていました。家族と家族が相争うのは、遠く「ロミオとジュリエット」の昔のことだけではありません。イタリア南部のペレグリーノ家とジョフレ家の対決では、1971年から5年間にわたり、両家の死者40人以上、負傷者100人以上というような話があります(大西克寛『ああ! イタリア』)。

 あの悪名高いマフィアも、最近は乱れてきましたが、もとは一族郎党の集まりで、その殺人も父がやられたから息子が、兄がやられたから弟が復讐するというものでした。

個性が芸術を生みだす 

 個人主義がいいほうに表われると、人びとおのおのが個性的ということになります。イタリア人は、一人一人がバラエティに富み、個性豊かです。だからこそ建築、彫刻、音楽、その他の芸術やファッションなどの分野で天才的な達人が出るのです。

 ところが、個人主義の悪い面は団体や社会としての統一がとれず、まとまりがないということになります。

 イタリアには優れたソリストは多いが、コンダクターはいないといわれています。文字どおり、オペラ歌手はいうまでもなく、バイオリンではパガニーニ以来現代のウト・ウギまで、ソリストはまことに多士済々ですが、コンダクターとなるとトスカニーニ以後イタリア人の名はあまり聞きません。これが政治面では多数政党並立、党内の派閥化となり、イタリアで唯一まとまりのある組織は教会と共産党だけということになるのです。

歴史の重みを背負う国 

 イタリアの不思議の源泉の最後に、「歴史の重み」を挙げておきたいと思います。イタリアは、良きにつけ悪しきにつけ、歴史の重みを感じさせる国です。

 イタリアの内閣が戦後十ヵ月ごとに交代するというのも、何も今に始まったことではなく、ローマ帝国時代からの伝統なのです。

 

I.不思議の数々

バラエティ豊かなイタリア人 

 ある学者によると、イタリア人は大まかにいって4つに分類できるとのことです。

 まず長身・ブロンド・青いヒトミの北イタリア人、次に中背・ズングリ型・栗色髪のアルプス人種、第三は小柄・骨ぶと・ちぢれ髪・黒眼の地中海人種、最後は中背・栗色の髪・褐色の眼の中部イタリア人というのです。

 この違いは、イタリアを北から南へ旅行すれば、素人でもかなり明白に見わけられます。

 言葉もバラエティに富んでいます。現代イタリアの標準語は、ローマの北方トスカーナの言葉が中心になっていますが、各地それぞれの方言が根強く生き残っています。

 わが国でも馴染みの深いオー・ソレ・ミーオのナポリ・カンツォーネは、ナポリ方言で歌われているので、北部の人にはよく意味がわからないということです。

 こういうことですから、「イタリアの政治的統一は成れど、イタリア人の民族的統一はいまだし」といわれているのです。

イタリア南部と北海道 

 イタリア南部を旅行したとき、すぐに北海道のことを思い出したのです。そこには、(1)広々とした土地に坦々として立派な道路が走っています。しかし、往き交う車は少ない。(2)道路の両側には、ポツンポツンとモダンな新築住宅が見えます。しかし、人影は少ない。(3)工場らしい工場というか、大規模工業は海岸沿いの都会にしか見られない。()都会への人口、とくに青少年の人口流出で、過疎に悩んでいる町村が多いことなど、イタリア南部と北海道は似たところが多いです。

 しかし、よく考えてみると、両者には大きな違いがあります。

 第一に、北海道は本州と海で隔てられていて、相互交通が不便ですが、イタリア南部は本土と陸続きで、首都のローマから南端まで車で5〜6時間もあれば簡単に行けます。

 第二に、北海道は一年の半分が雪におおわれ、そのための生産障害や経済的出費が大きいのですが、イタリア南部では一年中さんさんと太陽が照り輝き、温暖で、そういうハンディキャップがありません。

 第三に、北海道はその先は荒々しいオホーツク海で経済交流の相手がありませんが、イタリア南部は同じく海でも穏やかな地中海の向こうにアフリアK北岸や中近東という有利な取引先があるのです。

 この両者に政府が同じく開発政策をとっているが(イタリア南部のほうがはるかに手厚い)、不利な条件の多い北海道では、教育・文化水準もほとんど本州と変わらないのに、イタリア南部はいまだに全国平均の68%に甘んじているというのは、いったいどうしたことなのか、とつくづく考えさせられたものです。

時計までもが個性豊か 

 私の住んでいた家から都心の事務所まで約9キロ、その間に8個の時計がありました。どのような間隔で配置されているか? えーッと、植木算でいくと…ちょうど1キロごとに一つということかな…。そのように組織的なことは、イタリア人の性に合いません。まず家から1キロぐらいに一つ。それ見ろと早合点しないでください。それから3キロぐらいで、道の両側に2個相対しています。さらに100メートルあまりで小さな広場があり、ここには同型の時計が何と4個も立っています。いちばん離れているので約20メートル、近いのは10メートルぐらい、したがって4つ全部が一ヵ所から見渡せます。それから4キロほどで、最後の1個というわけです。

 これだけのことなら、さほど面白くもありません。問題は、この八つの時計が、それぞれどんな時刻を指しているかです。ある日のこと、私は何だかおかしいと感じ、記録をとってみました。最初の時計は10分進み、2個対面のは左が3分遅れで右が7分進み、広場の四つは20分遅れから1時間45分進みまで、最後の1個は2時間45分遅れとなっていたのです。

 これだけでは、まだ面白くない。私は好奇心に燃えて、その後、毎日記録を続けました。大使なんてヒマなんだなあといわないでください。毎日、事務所までニ往復、パーティがあればさらに一往復、2時間から3時間半も車のなかにいると、下らないことを考えているしかありません。ほら枕上、厠上、馬上の「三上のアイディア」というでしょう。馬上は、現代では即ち車中ということになります。

 この記録の結果ですが、詳細を表にしてみてもしかたがないので省略しますが、要するに、ある時計は毎日10秒遅れ、あるいは30秒進みなどと、微妙な変化を示すのです。そこで考えたのは、なるほどこれが音に名高いイタリアのバラエティだ、時計にもそれぞれ個性があるのだということでした。

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 ところが、3月の末の日曜日から「夏時間」になりました。街頭の時計はどうなっているかと、またもや好奇心に駆られたのですが、月曜日に通ってみると、ちゃんと夏時間に調整されていて、しかも全部の時計が1分とは違いがないのです。これでは明日から記録の楽しみもなくなったと、がっかりしたものです。

 ところが(イタリアの話をしていると、「ところが」が多くなりそうです)、そう考えたのは、私がまだイタリア事情に精通していなかったための早計でした。

 火曜日には、例の四つの時計のうちの一つが1時間遅れ――つまり冬時間に戻っているのです。もっとも、水曜日には再び夏時間になっています。これは、いったいどうしたことなのか? ここまできて、やっと私は事の真相をつかんだように思います。

 イタリア人の豊かな個性は、フットボールのチームや新聞から政党まで、それぞれ何事にもヒイキを作り出します。例の四つの時計でいえば、冬時間に戻されたのは1日だけでも夏時間反対派のため、遅れているのは保守派のため、進んでいるのは進歩派のため、無茶苦茶進んでいるのは急進派のため――という解釈に到達しました。

 そうでなければ――街の時計がみな同じ時刻を示しているのであれば――そもそも一ヵ所に二つも四つも置くことは、初めから意味をなさないではありませんか。なお、八つ目の時計は、とうとう動かなくなりました。これは、きっと死者のためということなのでしょう。もしかしたら、次の復活祭には、また蘇るのかもしれません。

 

運転は気合いで 

 無秩序のゴッタ返しの標本は、イタリア人の自動車の運転ぶりでしょう。信号無視もいいところで、彼らのいうには、黄信号は全速力で交差点をつっ切れ、赤信号は注意して進めということなんですって。それでは青は?と問えば、強引にしかし注意して進むとのこと。なぜなら、こちらが青だと左右は赤なので、「注意して進め」の連中が左右からやってくるからです。

 こういう場合にはどうするか? 車の頭を先につっこんだほうが勝ちで、そのコツは、目と目のにらみ合いに勝つこと。これではまるで相撲の立ち合いのようなものです。

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 赤信号で停まると、後からきた車がヒョイとその前に出ます。ということは、停止線より前に出るわけで(もっとも、停止線など誰も守りっこないものにカネをかけて標示するような無駄は省かれている)、信号が青に変わっても当人にはわかりません。後ろの車からピーピーとやってもらって、やっと動き出します。これでは、1秒でも早くというのがかえって遅くなるのですが。

飲酒運転もOK 

 道が混んでくると、反対車線をつっ走るのがいます。当然向こうから車がくるわけで、そうなると、右車線に戻らざるをえません。これを「馬鹿ヤロー」ともいわずに、おとなしく入れてやるところが、イタリア人の鷹揚さです。

 これに限らず、イタリア人は、バスに乗るときや買い物で後から来た人が先になっても怒りません。バスを待つのに列を作るなどというヤボなことは、初めからやってはいけないのです。

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 ところで、飲酒運転は日本ではきつく御法度ですが、イタリアではOKです。ただし、「酔っ払い」運転はいけません。つまり、酒を飲んでいてもよいが、酔っ払っていてはいけないというのです。

 これは、実に思いやりのある規則だと思います。イタリア人に「酒を飲んだら運転するな」というのは、「運転するなら食事するな」ということになるからです。なぜなら、イタリア人の食事にはワインが付きものですからね。

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 信号無視も、二重駐車も、反対車線走行も、もちろん、すべて交通規則違反です。しかし、「禁じられたことも許される」のが、イタリアなのです。それよりも、動きのとれない混雑が誰の指揮もなしに、何となく解決されていくのが、もっとイタリア的であるといってもよいのではないでしょうか。

テレビ放送は誰でも自由に 

 イタリアのテレビ放送は、RAIと略称される国営放送が3チャンネルあるほか、民営テレビは設立自由になっています。

 設立自由というのは、文字通りそうなのであって、誰でも勝手にテレビ放送をやってもよいのです。それというのも、電波管理法が長いあいだ議論されながらも、いまだに成立していないからなのです。それでどうして混線しないのか? それがそれ、イタリア的な「無秩序のなかの秩序」というものです。

 ところが、この自由放送の一部が、ある日、突然禁止になりました。1984年秋のある日のこと、私は、いつものようにスイッチを入れたところ、「裁判所の命により、本チャンネルの放映は禁止されました」との字幕が流れているばかりです。4大民放がすべて、まったく同じ字幕を流しています。

 翌日、新聞を見てわかったところは、こういうことでした。

 イタリアには電波管理法がないといいましたが、国営放送設立法というものがあり、それには「全国放送は、国営RAIの独占とする」との意味のことが書いてあるというのです。ある日、3地域の裁判官が、偶然の一致か話し合いの末か、そのことに気付いて、その3地域だけでは全国ネットを持つ民放4社に禁止命令を出したのです(各地区だけに放送する群小民放には適用なし)

 世論は、もちろん大騒ぎです。そこでどうなったか?

 四日後に、政府は、早急に電波管理法を作ることとするが、とりあえずそれまでは従来どおり放送を許すという緊急政令を出したので、一件落着となりました。まるで「大岡裁き」のようなものですが、これこそイタリアの本領なのです。

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 個性豊かなイタリア人のこととて、テレビの各チャンネルが、それぞれ個性を持っています。RAIの第一と第二は全国向け、第三は各地域ごととなっていますが、全国向けの二つもそれぞれ特色があります。というのは、第一はキリスト教民主党、第二は社会党が牛耳っているからです。

 したがって、ニュースの取材の観点が違っています。第三放送もまた、地方色の濃いニュースを流します。

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 イタリアの国営テレビは、聴視料(日本とほぼ同額)のほか広告を許されているので、その収入もあるのですが、毎年、大きな赤字を出しています。83年の赤字は200億リラ(約30億円)でした。 

新聞は読んでもわからない 

 イタリアの新聞が読みにくいというのは、何も私のイタリア語の能力のせいではありません。イタリア語ペラペラの人でも、いや、イタリア人にとってもそうなのです。

 その理由は、第一に、記事が事実の報道よりも主観的な主張が多いこと。第二に、記事が長文で、知りたい事実をさがし出すのに苦労すること。第三に、各紙それぞれ個性的なので、1紙だけでは事の全貌がつかめないからです。

 そもそも新聞記事には、誰が、いつ、どこで、何を、どのようにやったか、という四つのWと一つのHが基本とされています。ところが、イタリアの記者はそんなことにお構いなく、自分の考えを書きまくるのです。しかも、おしゃべり好きのイタリア人のことですから、記事がとても長い。 

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 各紙がそれぞれ個性的なことはイタリア人の国民性に即したもので、政党機関紙でない一般紙でも、保守・中立・左翼的との色彩がかなりはっきりしています。

 イタリアには全国紙といえるものがありません。これはアメリカでも同様ですが、有力紙であっても、その発行地を中心とする地方紙なのです。

 ローマで発行されるラ・レプブリカは、ミラノ、ナポリ、フィレンツェで発売するときに、それぞれの地方版を折り込んではいます。それまで努力しても全発行部数は40万程度なので、とても全国紙とはいえません。

 他の有力紙として、全国的に読まれているものにミラノのコリエーレ・デラ・セーラとトリノのラ・スタンパがありますが、これらも全国ニュースよりは発行地の地方ニュースが主で、発行部数は各50万程度です。

 フィレンツェで発行されるラ・ナツィオーネを見学しましたが、人口470万の2州だけが地盤なのに、実に37市向けの地方版を作っていました。地方版は、対象都市の大小に応じて1ないし3ページですが、合計では49ページにもなっています。発行部数30万なので、これでは収支が合わないのではと質問したところ、「読者が求めているのだから」という答えが返ってきました。

 収支といえば、イタリアの新聞の経営は非常に苦しく、販売価格は制作コストの約半額にしかならないということで、用紙代の8割まで政府が補助しています。

記者は国家試験に合格して 

 イタリアの新聞の自由さは、新聞の自由に慣れたわれわれにも時々あっと驚かすようなことがあります。汚職事件で疑わしい政治家が実名で指摘されたり、外務省の人事異動で某大使(実名で報道)は何局長に予定されているが、本人はこれが気に入らず抵抗しているなどとの記事にもお目にかかります。

 他方、多くの記事が記者の署名入りなので、その責任は明らかにされています。自由な言論をするからには、その責任をとるというのは立派なことと思います。

 それかあらぬか、新聞記者は社会的地位が高く、記者になるには国家試験に合格せねばなりません。新聞に国庫補助があったり、記者に国家試験とは、やりようによっては言論統制の具にもと思われるのですが、そんな議論は聞きません。

禁じられたことも許される 

 ヨーロッパの小話に、こういうのがあります。イギリスは禁じられたこと以外は何でも許される国、ドイツは許されたこと以外は禁じられる国、イタリアでは禁じられたことも許されるというのです。なお、ついでながら、ソ連では許されたことも禁じられているようです。

 イタリアは、まさに禁じられたことも許される国なのです。

脱税も何がしか支払えば許される 

 私はローマに着任したとたん、その直前に出た緊急政令に、まずどぎもを抜かれました。緊急政令というのは、法律で決めるべき問題ではあるが時間的余裕がないときに出し、30日以内に議会の承認を必要とするものです。

 これが、なぜ30日を待てない緊急性があるのかも疑問ですが、それはさておき、驚かされたのはその内容です。それは、過去6年間の脱税につき新しく何がしかの申告をすれば、それ以上の調査はしないで正しい申告と認め、その分の納税を行なえば脱税の罪に問わないというものでした。

 私はさすがに「ざんげ」の宗教の国だと感心もしましたが、よく聞いてみると、これは今回が初めてのことではなく、73年にも行なわれていたのです。政府の意図は、何も「悔い改めれば許される」というキリスト教の布教ではなく、数年間の徴税事務の遅れを一掃し、とにかく税収をあげようということにあったのです。

イタリアは政治の祖国 

 イタリアは、古くローマ時代にすでに王制・帝制のほかに共和制を経験しており、さらに中世には教会国家や都市国家、そうして近くはファッショ独裁まで、およそありとあらゆる形態の政治を実践してきました。

 理論面でも、マキャヴェリは近代政治理論の先駆者となっています。また、国民のほうから見て、イタリア人ほどいろいろな外国人の支配を受けてきたものは珍しいともいえるでしょう。この結果、イタリア人の最も卓越した分野は政治であるということになっているのです。

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 イタリアの政治は、戦後平均10ヵ月で内閣が変わっています。一度だけ2年3ヶ月あまりというのがありますが、わずか9日というのもみられます。

 しかも、内閣が潰れて次の内閣ができるまでいつもすったもんだで、空白期間が生じます。いちばん短くて7日間、時には126日にも及び、その累計が戦後何と1300日以上(約4年間)というのですから驚きます。

回転ドアの政治 

 イタリアの政治は「回転ドア」だともいわれています。

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 戦後40年の間に44の内閣が生まれましたが、首相を務めた人はわずか17人しかありません。そうです、一人の人が何度も首相になるのです。ファンファーニ、ルモール、モーロ、アンドレオッティの4人は、みな5回ずつ首相を務めています。最多記録には、デ・ガスペリの8回連続というのがあります。

投票の義務の「アメとムチ」 

 イタリアでは、憲法で投票が義務づけられています。

 実際にも、イタリアの総選挙の投票率は船戦後78年までの平均が92・6%ということで、西欧諸国のなかではオーストリアに次いで高くなっています。これにはイタリア人の政治好きなことももちろんですが、投票に対する「アメとムチ」があるのです。

 投票奨励のためには、投票のために故郷の選挙区へ帰る人に国鉄料金の7割引があります。国外居住者は国境までの運賃の3割を国庫補助、国内運賃は無料と、たいへん優遇されています。家族の連帯の強いイタリア人のことですから、選挙は故郷の親戚に会うための絶好の機会と喜ばれるわけです。

 また、棄権防止のため、(1)棄権した人は15日以内に棄権の理由を届け出なければならず、正当な理由がない場合には1ヵ月間、役場の告知板に掲示される。(2)素行証明書に5年間「不投票」と記載されることになっています。この記載は公務員採用試験などで不利に扱われるとのことですが、「いや、別に問題にならない」と、ある政府高官は洩らしていました。

 しかし、これまでしても「政治の国」イタリアでさえ、最近は棄権率が増える傾向にあるようです。

膨張を続ける財政赤字 

 イタリアの大企業の多くは、国家がその株式を持っている政府企業です。鉄道、電信通信、航空のアリタリア、海運、高速道路、ラジオテレビ放送のRAIから銀行(中央銀行は当然としても、数個の商業銀行まで)、重工業のかなりの部分も、政府企業となっています。たとえば、鉄鋼では65%、造船95%、化学20%、重機械・発電機の三分のニ、電気電子工業の三分の一という具合です。こうして、政府企業は全鉱工業生産のうち25%を占め、労働力の同じく25%を雇用しています。

 自動車のアルファロメオもそうであるばかりでなく、政府系の事業分野はガソリンスタンド(民営と競合)、モテル、映画、温泉からチョコレートやアイスクリームにまで及んでいますので、藤川氏(元イタリア大使館書記官藤川鉄馬氏で、『イタリア経済の奇蹟と危機』の著者、引用者注)は「自動車からアイスクリームまで」といっています。

 この広汎な国家持株制度を監督するため「国家持株省」が1956年に設立され、専任の大臣が担当しています。

 このように国家持株制度の事業範囲が広いと、イタリアの経済機構はもはや半分社会主義、あるいは「混合経済」といってもよいのではないかともいわれますが、必ずしもそうとはいえません。というのは、銀行にせよ、自動車にせよ、民間企業と併存し自由に競争しているものが多いからです。ただ、社会主義体制と同じ点は、軒並み赤字を出していることです。

民間企業は黒字 

 イタリアの企業は、ごく少数の大企業と無数の小企業に二極化しており、大企業では政府系が圧倒的で、民間の大企業は数えるほどしかありません。自動車のフィアット、事務機械のオリヴェッティ、タイヤのピレッリ、化学のモンテジソン(ただし、株式の二割は政府所有)ぐらいのものです。

 民間企業、とくに中小企業は国営と違い、何とか黒字を出しています。

休暇は国民の義務 

 イタリア人は休暇を取るために働いているのだともいわれています。イタリアの憲法では、休暇は勤労者の権利であり、この権利は放棄できないと書いてあり、つまり休暇は国民の義務なのです。

裁判官もストをする 

 医者もストをやります。84年6月、三日間にわたり、15万人が参加しました。

 それよりも、裁判官までがストをやり、裁判所がキューゾ(閉鎖、引用者注)というのには驚きました(84年3月)。

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 それでは、イタリアで毎年どれくらいのストライキがあるか、ストによる労働損失時間の統計で見ますと、1975年以降、多い年では1億9千万時間、少ない年は7千万時間となっています。

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 ポンペイで、従業員が突然、組合集会をやり、遺跡が午前中閉鎖になったことがあります。観光シーズンで、たくさんの外国人観光客が押しかけていました。

 日本人の団体は、早々に立ち去りました。おそらくパック旅行のため、次の日程があったからでしょう。アメリカン・イングリッシュを話す一群は、「これがイタリア式だ」と大声でわめきながら、列の前へ出ようとします。クィーンズ・イングリッシュを話す人たちは、ストが終わるや、「出る人を先にしよう」と群衆整理の声を掛けながら、自分は先に入ろうとしています。この間に、イタリア人は、仲間で四方山話をしながら、おとなしく開館を待っており、いざとなっても先を争うようなことはありませんでした。

 84年8月21日の実話です。

 このようにイタリア人は、ストに怒ったりはしません。ストは労働者の権利と認識してのことか、いつかは自分たちもやるので相身互いということなのか、あるいは、鷹揚な国民性の表われであるのか、考えさせられたものです。

労働者は過保護 

 イタリアの労働者は、憲法と1970年の「労働者基本法」によって、手厚く保護されています。

 憲法第一条 イタリアは、労働に基礎をおく民主的共和国である。

 第三十五条 共和国は、労働を、そのすべての形式および適用において保護する。

  1. 労働者は、毎週の休息および有給の年次休暇に対する権利を有する。この    

  権利は、放棄することができない。

  1. 労働組合の組織は自由である…組合は、その関係する種類に属するすべて
  2.  の者に対して強制的効力をもつ労働協約を結ぶことができる。

  3. ストライキ権は、これを規制する法律の範囲内で行なわれる。
  1. 労働の経済的および社会的向上のために、ならびに生産の要請との調和に

 おいて、共和国は、法律の定める態様および限界において、労働者が企業の管理に協

 力する権利を承認する。

 さらに、「労働者基本法」では、

  1. 労働者は、工場内で労組活動や集会をする権利を認められる。
  2. 組合費を給料から天引きすることはできない。
  3. 使用者は、労働者の病気・事故による欠勤をチェックできない。
  4. クビを切るには、5日前に書面で通知しなければならない。
  5. 新規雇用は、職業紹介所のリスト登録順によらねばならない。
  6. 使用者は、ストライキの権利を制限しない。

ことなどを定めています。

強力な労働組合 

 このような法律の保護の下で、イタリアの労働組合は、強い力を持っています。

 まず組合組織を見ると、全国的に組織された五つの連合体と20あまりの独立組合があり、全就労者の50%を包含しています(日本では約30%)。独立組合というのは、管理職公務員、教職員、航空パイロットなどの、いわば知識労働者の組合で、警察官も82年に組合結成を認められました。

 五つの連合体のうち、CGIL(イタリア労働総連盟)、CISL(イタリア自由労組連盟)とUIL(イタリア労働連合)は三大労組と呼ばれています。この三つはもともと、戦後、反ファシスト諸政党が共産党をも含み大連立政権を樹立して、労働運動の分野でも大同団結が行なわれ、1945年6月、全労働者の組織として創設されたCGILがその後分裂したものです。

 1948年のゼネストを機として、その極左的傾向に反対の各派が、キリスト教民主系はCISL、社会党系の一部と社民・共和系がUILとして独立し、CGILには共産党と社会系の一部が残ったものです。

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 イタリアの労働運動が最大の勝利を収めたのは、1975年にスカラ・モービレを勝ち取ったときです。

 スカラ・モービレ(動く階段、つまりエスカレーター)とは、賃金の物価スライド制です。インフレで物価が上がるとそれに応じて自動的に賃金が上がる―― 一見きわめて合理的ですが、これがイタリア経済の命取りになり、したがって労働者にとっても不幸をもたらすことになります。

 労働組合にとっても、この制度は予想しなかった結果となります。賃金が自動的に上がるようになったので、組合の賃上げ闘争は無意味、不必要となり、ひいては組合のありがたみもなくなってきたのです。

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 イタリアの労働運動が転機を迎えたのは、1980年のことです。この年ECのEMS(ヨーロッパ通貨制度)が発足し、イタリアもそのメンバーなので通貨を自由に切り下げることができなくなりました。

 それまでのイタリアは、インフレとスカラ・モービレによるインフレを上回る賃金上昇とによる国際競争力の低下を、リラの相次ぐ切下げによって糊塗してきましたが、今やそれができなくなったのです。もはや、生産性の向上――少なくとも労働コストの生産性を上回る上昇の抑止しか、経済を支える道がなくなりました。

30歳の女性にも年金が 

 イタリアの年金制度はきわめて複雑ですが、老齢年金は男は60歳、女は55歳から支給され、国家公務員は勤続20年で恩給生活に入る資格が与えられます。

 ところが、83年初めに世間をアッといわせた事件は、30歳の女性が恩給をもらうことになったのです。というのは、結婚している女性または結婚していなくても子供がある女性は、勤続15年でいいからなのです。イタリア女性の平均寿命は75歳(30歳での平均余命はもっと長い)ですから、今後45年間にわたって当時の貨幣価値で毎月63万リラ(約12万円)の年金を、政府は支給し続けねばならないことになります。こういう若くて年金を受けている人は、ベーピー年金者と呼ばれています。

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 財政赤字の大きな要因は、現代先進諸国に共通のことながら、社会福祉のための国庫負担です。

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 政府の発表によれば、イタリアでは10人に3人が何かの年金受給者であり、そのうち障害年金の受給者が500万人以上となっています。それでは、イタリア人の10人に1人は障害者ということになってしまいます。農業などやっていないのに農業者年金に入り、しばらくして農業ができなくなったといって障害者年金を受けるという例が報告されています。南部のポテンツァという地域では、人口40万のうち12万人が障害者年金を受けているということです。

 また、ある調査では、目が見えないというので障害者年金を受けていながらトラックの運転手をやっているとか、脚が悪いと給付を受けながら市の清掃夫として働いている、などが見つかったそうです。

イタリア経済の隠れた底力 

 イタリアには、古くはガリレオ・ガリレイ、近くは原爆の父エンリコ・フェルミ、無線通信のグリエルモ・マルコーニ、ジェット機のセコンド・カンピーニらがおり、化学技術史上の天才を輩出しています。ただ、この人たちの天才的発明が現代産業として発展しているのはイタリア以外の国であるということで、イタリア人には残念なことでしょう。

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 イタリア経済が、ピサの斜塔と同じく倒れそうに見えても倒れないのは、隠れた底力があるからです。

(1)イタリアの経済力は、公式統計に現われたものよりは、はるかに強いものがあります。イタリア語でラヴォーロ・ネーロ(黒い―ヤミの労働・生産活動)と呼ばれるアングラ経済です。

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 アングラ経済が、いったいどれくらいあるか?

 それがとらえようのないのが、アングラたる所以ですが、経済学者の会議の推定では、少なくともGNPの25%とされています。いや、そんなものではない、もっともっと多いという人もあります。

 アングラの例として、ナポリは年間500万組を輸出している世界最大の革手袋の産地ですが、手袋製造工場として登録されたものは一軒もないとのことです。また、世界のスキー靴の90%は北イタリアのモンテベルーノで作られていますが、この町にはスキー靴製造工場は一つもないということになっています。 

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(2)次に、先祖代々のストックがあります。住宅やオフィスの建物がいちばん目立つ例ですが、イタリアでは百年はおろかニ百年も前の建築物に今も人が住み、あるいは官庁・会社の事務所や工場として使われています。

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(3)さらに、中小企業の実力です。大企業は国有も多く、そうでなくとも労働者過保護のために振るわないのですが、中小企業には独自の技術を持ち競争力の高いものが多々あります。労働法規の適用を受けない零細企業では、社会保障掛金の納入もいらないし、勤労意欲も高いのです。

(4)最後に、現実的で融通無碍なイタリア人の国民性とバイタリティを挙げねばなりません。何事によらず、原則などに拘泥することなく現実的に凌いでいく国民性は、従来そうであったように、今後とも「経済危機」を巧みに乗り切っていくことでしょう。

国営企業・IRIの立ち直り 

 最近、歴代のイタリア政府はイタリア経済の再建、身近には財政赤字縮小のため、国営企業の経営改善を大きな政策目標としています。

 最大の国家持株会社IRI(産業復興公社)では、著名な経済学者で商工大臣の経験もあるプロ―ディ教授が83年総裁に任命され、私がそばで見ていても涙ぐましいほどの奮闘をしています。

犯罪に社会不安なし 

 イタリアでは、平均してマフィアの殺人が毎日一人以上、誘拐が毎週一件あり、盗難は日常茶飯事、そのほかにテロ事件も相次ぎ、イタリアは犯罪の国だとのイメージを持っている人も多いようです。

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 なお、犯罪統計を見ていると、強姦事件のとりわけ少ないことが目につきます。毎年千件前後で、日本の5分の2、イギリスの4分の1、西ドイツの7分の1、アメリカの80分の1となっています。

マフィアと政治の癒着 

 マフィアは、実はムッソリーニのファッショ独裁の下では大弾圧を受けて息もたえだえとなったのですが、第二次大戦末期にアメリカがシチリア攻略に際し、ニューヨークの刑務所で服役中の大親分ルチャーノと話をつけて、シチリアのマフィアの力を借りたことから、息を吹き返したともいわれています。

強請・麻薬・殺人 

(1)マフィアの犯罪は、まずは、わが国の暴力団と同じように、商店や飲食店など(ショバ代稼ぎ)に始まります。イタリア商業組合が会員にアンケートしたところ、全国の商店の10・2%は、マフィアなどの強請にあっているとのことです。この数字は地域によって大差があり、ナポリでは60%、パレルモでは65%にもなっています。ジョバ代は、1ヵ月50万リラ(約7万円)くらいで、全国の年間総額は8千ないし9千億リラ(1千億円以上)と報告されています。これを払わないと、いろいろ嫌がらせをされます。店のシャッターやショーウィンドーが爆弾で揺さぶられたもの256店(シチリアだけで59店)ということでした。

 強請を警察に訴え出たのは569件だけで、あとは泣き寝入りで支払っているようです。というのは、普通の保険にかけるよりも確実に安全だからということなのです(84年3月23日付ラ・スタンパ紙)

(2)次に、これもわが国の暴力団と同じく麻薬の取引です。

 麻薬の原料のケシは、パキスタン、アフガニスタン、イランなどで生産されますが、現地でモルヒネにしてからシチリア島へ運ばれ、ここで11種の薬品を使う複雑な3段階工程を経て高品位のヘロイン第四となります。生産地でのアヘン1キロは約5千ドル、モルヒネに加工されて1万ドル、純ヘロインになれば25万ドルとなり、これがアメリカで麻薬常習者に小売りされると100万ドル以上になるということです。

 今やアメリカへ密輸入されるヘロインの半分以上はシチリアからということで、年間2トンないし4トンに上るとのことです。これから得るマフィアの収入は、年間13億ドルとの推定もあります。

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(3)最後に殺人ですが、1983年にはシチリア島だけで188人、全国で400人あまり、このほかにマフィアの手にかかったのではないかと思われる行方不明者数百人ということです。

 ある1週間(1982年10月)の新聞記事を見てみましょう。

 14日 カモッラ(ナポリ版「マフィア」、引用者注)による殺人

 16日 シチリアでマフィア22人逮捕

  同日 ナポリでカモッラのクトーロ一家の組頭2人逮捕

 17日 ナポリ県の市長がカモッラに殺される

 19日 刑務所内でクトーロ一家と新興一家との間で銃撃戦

  同日 トリノで建築業者がマフィアに殺される、その兄弟は以前に殺されていた

 20日 サレルノの市会議員がカモッラに殺される

  同日 パレルモでマフィアの組頭2人殺される

地に落ちた仁義 

 マフィアは、逮捕されても、組織の内部のことについては、警察に対していっさい口を割らないものでした。組員になるときに、その誓いを立てており、その違反に対する罰は死です。

 ところが、83年7月ブラジルからイタリアへ強制送還されたトマーゾ・ブシェッタ(56歳)は、当局が家族の安全を保障する約束と引き換えに、前述したマフィア組織について供述するとともに、100を越す殺人事件の犯人や麻薬取引の実態について証言したものです。

* * * * *

 その証言にもとづいて、84年9月29日早朝、パレルモ市だけでも警官約3千人を動員し、各地でマフィアの大摘発が敢行されました。指名手配366人、逮捕66人ということで、ムッソリーニのマフィア弾圧以来の大作戦ともてはやされました。また、この二日後には、アメリカでも連繋摘発が行なわれました。

泥棒もプロフェッショナル 

 イタリアの泥棒は、プロなのです。アマチュアでは歯が立つはずはありません。

サッカーに熱狂 

 イタリアでスポーツといえば、断然サッカーです。全国各都市にプロチームがあり、日曜午後にリーグ戦を行なっています。しかも、サッカー試合には、トト・カルチョ(カルチョはサッカーのこと)があり、一発大金も手に入るのです。

 各都市のサッカー・チームの試合にあれほど熱狂するのは、つい百数十年前まで都市と都市が戦争に明け暮れていた時代からの対抗意識の名残りではないかとも思われます。ローマがイギリスの名門リヴァプールに逆転負けしたとき、ローマを仇敵とするミラノでは、「ありがとう、リヴァプール、よくやってくれた」とのビラが貼り出されました。

* * * * *

 82年にワールド・カップがスペインのマドリードで行なわれたとき、ペルティーニ大統領自らマドリードまで応援に行きました。そうして、イタリアが優勝するや、大統領はイタリア・チームと同じ飛行機で凱旋し、イタリア・チームの監督を大統領官邸に招待して、勲章を授与し、愛用のパイプまで贈ったものです。

 第一次大戦でも第二次大戦でも見られなかったイタリア全国民の一致団結は、このとき初めて達成されたといわれています。

8.「コソボ難民帰還・セルビア部隊撤退前提〜ルゴバ氏G8合意支持〜」より 

  抜粋(朝日新聞夕刊、1999年5月7日)

 

【ローマ7日=藤谷健.】ユーゴスラビアを5日に突然出国し、ローマ入りしたユーゴ・コソボ自治州のアルバニア系住民指導者ルゴバ氏は6日、イタリアのダレ―マ首相らとともにローマ市内で記者会見した。ルゴバ氏は周辺国に逃げているコソボ難民について「(コソボに展開する)セルビア治安部隊などの撤退と北大西洋条約機構(NATO)諸国を含む国際部隊の派遣が、帰還の不可欠な条件だ」と述べ、ボンで同日開かれた主要八ヵ国(8)外相会議で決定した原則を支持する考えを示した。

 (中略)

 この日の会見は、ルゴバ氏が空爆開始後初めて、当局の制限なしに発言する機会として注目されたが、ダレ―マ首相らの一方的な発言が続き、質疑応答の時間が十分なかったため、ミロシェビッチ大統領との会談の真意などは明らかにならなかった。

 (以下略)

 

2000. March

10.ハンナ・アーレント著・大久保和郎訳『イェルサレムのアイヒマン〜悪の陳腐
さについての報告〜』より抜粋(みすず書房)

1943年夏のバドリオのクー・デタ以前、そしてドイツ軍のローマおよび北イタリ
ア占領以前には、アイヒマンと彼の部下はこの国で活動することを許されていなかっ
た。しかし彼らは何も解決しないというイタリアの遣方をフランス、ギリシャ、ユー
ゴスラヴィアというイタリア占領地域で見せつけられていた。なぜなら迫害されたユ
ダヤ人は絶えずこれらの地域へ逃げこみ、そこで一時的な安全を得ていたのである。
アイヒマンの仕事などよりもずっと高いレヴェルでイタリアの最終的解決[=ユダヤ
人の絶滅(引用者注)]のサボタージュは由々しいものになっていたが、それは主と
してヨーロッパの他のファシスト政府――フランスのペタン政府、ハンガリアのホル
ティ政府、ルーマニアのアントネスク政府、それのみかスペインのフランコ政府――
に対するムッソリーニの影響力のためだった。イタリアが自国のユダヤ人を殺さない
ですんだとすれば、他のドイツの衛星諸国も同じようにしようとするだろう。(中略)
アイヒマンの上官であるミュラーSS中将はこれに関して外務省に長い手紙を書いてこ
うしたことをすべて指摘したが、外務省のお歴々もそれに関しては大したことはでき
なかった。いつも同じたくみにぼかした抵抗、いつも同じ約束、そしていつも同じ違
約にぶつかるほかはなかったからである。このサボタージュは公然と、ほとんど人を
馬鹿にしたような遣方でおこなわれるだけに余計腹立たしいものだった。約束はムッ
ソリーニ自身、もしくは他の高位の当局者によってなされたが、将軍たちがそれをし
なかった場合ムッソリーニは彼らの<教養が違う>からと言って将軍たちのために弁
解するのだった。ナツィにきっぱりとした拒絶を投げつけることはたまにしかなかっ
たが、たとえばロアッタ将軍はユーゴスラヴィアのイタリア軍占領地域のユダヤ人を
ドイツの関係当局に引渡すことは「イタリア軍の名誉を汚す」と言明したものであ
る。

イタリア人が約束を守るように見えるときはもっとひどいことになりかねなかった。
(中略)ドイツの強い圧力のもとにイタリア人の<ユダヤ人問題担当部>が設けられた
が、その唯一の任務はこの地方のすべてのユダヤ人を登録し、地中海岸から追い出す
ことだった。事実2万2千のユダヤ人が捕られられてイタリア軍占領地帯へ移された
が、ライトリンガーによればその結果は「最も貧しい千人ほどのユダヤ人がイゼール
県とサヴォワの最上のホテルで生活していた」ことだった。アイヒマンはそこで自分
の部下のなかでも最も辣腕なアロイス・ブルンナーをニースとマルセイユへ送った
が、彼が到着したときにはフランスの警察は登録したユダヤ人の名簿をことごとく破
棄してしまっていた。(中略)1943年の秋イタリアがドイツに宣戦したときドイツ
軍はようやくニースにはいることができ、アイヒマン自身もコート・ダジュールへ急
行した。(中略)ユダヤ人はイタリア軍とともに去ってフィウメに逃れたのである。

イタリアがその強力な盟邦と調子を合わそうと最も真剣に努力するときですらも喜劇
的要素はやはり何としても拭いきれなかった。ムッソリーニはドイツの圧力を受けて
30年代の終り頃ユダヤ人弾圧法を採用したとき、一般的な免除対象――従軍軍人、
高級勲章の受勲者など――を定めたが、それにもう一つのカテゴリーをつけくわえ
た。すなわちファシスト党の旧党員とその両親、祖父母、妻、子、孫というカテゴ
リーである。この点に関する統計を私は知らないが、イタリア系ユダヤ人の大多数が
免除される結果になったに相違ない。(中略)イタリア人の徹底的な反ユダヤ人主義者
ですら真剣に考えることができないように見えた。イタリアの反ユダヤ人運動の指導
者ロベルト・ファリナッチはユダヤ人の秘書を使っていたのである。(中略)イタリア
ではこうしたことがあけっぴろげに、そして謂わば無邪気におこなわれていたのであ
る。この謎を解く鍵は勿論、イタリアは現実に反ユダヤ人的措置が何としても一般か
ら嫌われていたヨーロッパで数すくない国の一つだったということである。(中略)

イタリアのファシズムは<容赦ない厳しさ>の点でおくれを取るものではなく、戦争
勃発前に外国系および無国籍系ユダヤ人を自国から一掃しようとすでに試みていた。
しかしこれは、イタリアの下級官吏たちが一般に<厳しく>することを好まないため
に遂に成功しなかった。そして事が生死にかかわる問題になったときに、主権を維持
するという口実で彼らはこの部類のユダヤ人を引渡すことを拒んだ。そのかわり彼ら
はこのユダヤ人たちをイタリアの収容所に入れ、ドイツがイタリアを占領するまでユ
ダヤ人たちはそこで安心していられた。(中略)

さらにイタリア人の人間味は、戦争の最後の一年半のあいだにこの国民に襲いかかっ
た恐怖の試錬にもよく堪えて見せた。1943年の12月、ドイツ外務省はアイヒマ
ンの上官ミュラーに正式に援助を求めた。「統領(ドゥーチェ)の勧告したユダヤ人弾
圧措置の実施に関して最近数ヵ月イタリア人当局者の示した不熱心さにかんがみて、
外務省はこの実施が…ドイツ人当局者によって監督されることが緊急に必要であると
考える。」そこでルブリン地域の死の収容所のオディロ・グロボクニクのような名立
たるユダヤ人殺しどもがポーランドからイタリアへ急派された。(中略)アイヒマンの
課は「イタリア系ユダヤ人」もただちに「必要な措置」に服するものとされると告げ
た回章を出先機関に発送した。第一撃はローマ在住の8千人のユダヤ人に加えられ、
イタリア警察は信用できないのでドイツの警察隊の手で彼らを逮捕することとされ
あ。ユダヤ人たちは警告を受け――それもしばしば年期を入れたファシスト党員から
――、7千人が逃れた。ドイツ人は抵抗に出逢ったときにはいつもそうするように譲
歩し、イタリア系ユダヤ人は免除対象のカテゴリーに入らない場合すらも移送され
ず、イタリアの収容所に集結されるにとどまることを諒承した。この<解決>はイタ
リアに関するかぎり充分<最終的>であるとされた。(中略)それにしても死者の数は
当時イタリアに住んでいた全ユダヤ人の10パーセントをはるかに下まわっていたの
である。(以下略)



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