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溢れる笑顔 |
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”余命三年”の宣告をのりこえ苛酷なラリーにいのちを燃やす愛と勇気と挑戦の人生 |
2011 8月最終稿 |
by 鈴木 まとめ編 |
最近のある医療系広告代理店のライフスタイル調査によると、仕事などで強いストレスを感じ、日常生活の充実感が乏しいなど、「若者の元気のなさ」が表れる結果が出ている。 そんなご時勢の中、対極を成す、ある友人にスポットを当ててみようと思う。
友人と呼ぶには、恐れ多い、能城律子さんである。元祖元気溌剌のカリスマ女性と言っても大げさではない。
最初のきっかけは 能城さんがある相談で私のところへ来られたのが出会いだと思う。
更に、能城さんとは、 全く別のところでのご縁もありまして、まだ私が青二才の頃、時々、海外と関係深い仲間内で、ホームパーティーをしていた。その中になんと偶然、彼女の姪御さんがいたのである。
また、個人的に宴会場を借りたく、ホテルニューオータニーに最終的にしたのも、能城さんの存在が決めてだったのではないかと、昔を振り返り思った。
TVや雑誌・新聞・ラジオ、などでも多少取り上げられたこともあるので、能城さんの関連トピックスを耳にしたことがある方もいるのではないかと思われる。 何十年か前からの知人で、 いつも、元気をおすそ分けしてもらってきたような気がする存在である。
彼女は東京のホテル御三家と称されるホテルニューオータニで、ベビールームを経営している。 起業家としても、世界で初めてのホテル内ベビールームを開業し、今日まで18万人のこどものお世話をしてきたことでも知られる。
誰もが元気になれる>>
身長148cm、体重30kg代という華奢な体。生まれながらに虚弱と聞いていた。肺門リンパ腺により、小学校5年で早くも休学という苦難の歴史が始まる。そんな彼女が20歳になってからは、(私も手が届かなかった)スキー1級の免許を取る。 そして、20代で起業という、若くして事業を興し、世界中(現在まで124ケ国)を旅行し、世界中の「女性と子どもたち」とふれあい、とまでは良かったのが 人生そう単純ではない。 輸入の失敗で、24歳のとき、現在に換算して約6億円の莫大な負債を負ってしまったが、見事危機を乗り越え、現在へと繋がるわけである。
一難去って又一難、20代で盲腸、胃潰瘍(かいよう)、腎臓結石を患い、35歳で子宮がんにより、子宮を摘出する大手術。後遺症に悩まされながらも、3年後、働く母親を支えたいと、若い頃の蓄えをもとに、ホテル内24時間体制の託児所を開所、子どもたちのベッドの間の床で寝泊まりする日々、月日が経って、42歳のとき、乳がん、ついに余命3年と宣告される。後遺症は半端じゃなかったらしい。上半身には強い圧迫感が残り、手がしびれ肩より上に上がらない。それでも仕事から離れるわけにはいかない。
「病気しているのが当たり前。どんな病名を告げられても感傷的にはならない。ひとがいつ死ぬかなんて、神様にしかわからないもの」と、持ち前の根性を発揮する。 といっても、神様はまだ、休息を与えてくれない。2回の肝臓結石、喘息、肺炎、両肩関節障害、股関節脱白、胸郭出口症候群(心臓からの太い血管がつぶれて両手まで血液が届かなくなる病気)、休む暇もない。
幼い頃から、病気のデパートといわれる由縁がそこにある。
そんな彼女に転機が訪れる。57歳の時、パリ〜モスクワ〜北京ラリーを紹介する新聞記事を目にし、会社を共同経営していた20代、世界各国を飛び回ったものの、中央アジアは行ったことがなかった。未知の国を見たい〜〜。病気がちで、若いころから車は足代わり。運転には自信があった。そして、1年かけ国際A級ライセンスを取得する。
チャレンジ>>
気温50度。果てしないサハラ砂漠を四輪駆動で走る、レーシングスーツの中は、熱い。後遺症で握力が弱いその手をハンドルに押しあて (後日、手術痕の残る手でその運転の様子を実演してくれたことがある)、股関節症で激痛の走る足でアクセルを踏む。時速100キロ。肉体も精神も極限状態なんだが、彼女は、「その緊張感がたまらない。地平線にゴンドラのように浮かぶ三日月、ぐらぐら燃えながらすとんと落ちる巨大な太陽……。自然の神秘の中で、自分は生かされていると実感するの」
サハラ砂漠の端っこを、ひとり、ラクダで走り回ったときの自分の体験温度と 能城さんのラリー時の温度を比較想像する。灼熱地獄か、いや、 ロマン以外のなにものでもないだろう。
これは、パリ・ダカールラリーの模様だが、オフロードで最も過酷と言われている。事実、約20日間のレースで体重は4キロ減るそうだ。96年に60歳で初参戦、これまでの世界的なラリーへの参加は、世界中のトップクラスが参加する「パリ〜ダカール」7700kmや「パリ〜モスクワ〜北京」の全長1万キロにもおよぶ過酷な悪路を走破する国際ラリー、史上で、初めて女性がトップ10以内になったという、記念すべき記録を作った『オーストラリア・サファリ・ラリー』など、計15回に及び、中でも、61歳のデビュー2年目の年には、三大メジャー・ラリーの連続完走を果たす。
お茶を飲みながら、レース中のことを振り返ったとき、隣のナビゲーターという切っても切れない相方とのチームワークがふと気になった。始終居るわけだから、それなりに、かんかんがくがく なんでもあるんだろなーと漠然と思いをはせていた。しかし、ナビゲーターとは議論や喧嘩などご法度、つまり、しない。そんな暇はないそうだ。
「おまけの人生、好きなことをして与えられた命を全うしなくちゃ。歩くことさえ制限されている私が、レースを通して世界へ行ける。今、が幸せ」とも、言うことなすこと、含蓄がありますねー。
また、こんなことも言っている。「大都会の人間社会のしがらみのなかで、このまま人生を使い果たしてしまっていいのだろうか?この世には、素晴らしい自然があり、素晴らしい人々がいます。自分はかってそうした人々に出会い大きな感動と喜びを得たことを覚えています。もう一度、自然に触れ、人との喜びを分かち合うことはできないだろうか?。このままでは忙しい人生が終わってしまう。本当にそれでいい?と自問自答した答えなんですよ。虚しい思いを引きずったまま、一生を終えたくなかったんです」
豊富な体験から語る「子育て論」は多くの母親に感銘を与え、生命の尊さを文字どおり血のにじみ出る努力で克服した壮絶な体験は、病気に悩む人々に勇気を与えてきたのも、よくわかる。
「私はここまでやりたいことをさせて頂いたのだから、感謝の気持ちで生きていこう」 この言葉も、重みがありますよね。
子育て論の専門家、国際ラリードライバー、海外旅行家、日本人女性として初めてイスラム教のラマダン(断食)を経験した人、世界初のホテル内託児所をつくった人、どのように形容したらいいのでしょう。もうひとつ、国際宅配おばさんの冠も付いているようである。
レースの先々にある人間ドラマは様々だ。スタート地点に群がり物を盗む子もいる。パレスチナ難民キャンプやアフリカの子供の暮らし。「走るコースの中で何ができるかな」砂の上に木で絵を書いているマリやセネガルの子供を見て鉛筆を届けようと思い立つ。「トンボ鉛筆の方が二万本くれたんです。それを日本郵船が無償で運んでくれました。みなさんから預かった愛情を渡しに行く。私は「国際宅配おばさん」。ホテルのコンピュター室から出る紙もきれいな部分を切り取り大きさを揃えて集める。不要になった毛布やボランティアの人々が集めてくれた衣類などを中央アジアのレースコースに沿って配って走る。暑いアフリカでは色鉛筆やスケッチブックを配る。「世界中の苦しんでいる子供たちにミルクと石鹸を宅配するんです。いろんな国の救援物資が港に放置され、必要としている人たちの手元に届いてないのを何度もこの目で見てきたんです。だから私は自分の手で最終目的地まで持っていく「宅配おばさん」。 ホテル・ニュー・オータニが、毛布をやめて羽毛ふとんを使用することになったことに目をつけた能城さんさんは、総務部に交渉、不要になった毛布数百枚をアフリカ等の病院に寄付することに。 さらにホテルで使用しているコピー機で、時々ミスプリで白紙が出て来ることに気がついた彼女は、その白紙をこつこつと集め、何と、9トンの紙を「ノート換わりに使って下さい」と、子供達に配ったそうだ。さらにホテルの部屋で使用された石鹸を集め、きれいに汚れを取り除き、丁寧にビニールの袋に詰め、アフリカやアジアの病院や学校に配ったりもした。
こんなエピソードは、氷山の一角かもしれません。 更に能城さん語録集なるものができてしまうのではと。それほど、インパクトのある御人である。
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※メディアとの関わりはこんな感じ
日本テレビの
『所さんの1億人の大質問!?笑ってコラえて!』の中で『砂漠を駆ける闘志の女』という特集
他、世界で最も有名な高齢女性ラリードライバーとしてフジテレビ、日本テレビ、NHKなど多くのテレビや雑誌で紹介されたそうです。
クロスロード 海外の現場でボランティア活動
“国際宅配おばさん”こと能城律子さん
「例外的日本人」 竹村健一 にも、掲載される。
1970年には世界各国を旅した経験から、読売新聞紙上にて「世界の一流品」の連載コラムを執筆。最近数多く出版されている「世界の一流品」ブームの火付け役になる。
著作
「女のアフリカ」(文芸春秋)
「オイルダラーの秘密」(サンケイ出版)
「乳ガンが生きる力をくれた」(宙出版)
「人生に失格はない」 徳間書房
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※98年には エイボンスポーツ賞を受賞する。
講演会多数。
勝手に想うと、逆転満塁ホームラン の人生かな! 彼女の持つ、不屈の精神力、バイタリティー、旺盛な冒険心、飽和状態に達するということはないようです。
モットーが「やるときは、とことんまでやる」 この一言で、おわかりになるでしょう。
人生おもいっきり、生きている気がする。 でも気負いは感じられない。
なんで 自分ばかり、こんな試練に見舞われるんだと凡人の私は思うことがある。彼女の生き様、そして生きるという哲学に比べれば、自分はちっぽけだなーと 思わざるを得ない。
別れ際に(昔はベンツだったが)現在の愛車四駆を前にして、いつもの笑顔で、 今でも35000km 走るのよ〜と。
元F1レーサーのジャッキー・イクスから、メカがわかるナビも紹介されている。
かねてからフランス国営テレビも注目の御年71歳のユニーク地球人”能城さん”、出れば、またまた ギネスものである。
後日談があるので少し補足:
ありがとう と ごめんなさいが言えれば、 どこの国でも生きていける!
今までの走行距離は、150万Km、レースを含めると200万Kmと、さりげなく私に言った。私なんて、せいぜい年1万Km で、いいとこどっこい。
彼女と話していて、頭にこびりついている言葉をあらためて抜粋すると、
今まで愚痴を言ったことがない! 悲劇の主人公にならない! 母に感謝! 自分の肉体に挑戦! 大自然の過酷さの裏に、神秘がある!
美しい国 という言葉、最近よく耳にする。能城さん曰く、最近 美しい心が少なくなってきた!
貫く精神大事!
肉体は精神によって引き上げられる!
サハラの砂は角がない。 サハラで、サハラの砂になりたいと思った!
今年2007年9月〜10月のエジプトラリー、そして2008年1月のパリ・ダカへというのが予定されている。 しかし、全部実現するには、経済的な側面は別として、 フィジカル的にも、精神的にも、 ゴルゴ13並みの強靭な体が要求されるのではと、つい思ってしまう。
レース以外では、 今までも依頼に応じて、学校とか 自治体関連、企業向けに時に講演会を行ってきたようだが、更に時間の許す限り、推し進めて行きたいと、熱く私に語った。
将来の夢:
1.月に立つ
かつて、人類第一号 月着陸船の本物ををなでなでしたときの感動を忘れない私ですが、 月に立つって、どんな感じでしょう?
2.水素カーで 日本横断
ほとんど水しか排出しないクリーンさが売り物の水素カー。
近年知人の一人に、液化天然ガス、次にバイオ燃料、つまり植物性燃料に目をつけ検討している人がいますが、その人に数年前私が言ったのは、ハイブリッド、オランダで既に使われている天然ガス、マレーシア・タイなどで実走行しているバイオもいい、しかし、これらはつなぎ ということでしょう、究極のエネルギーは、水素ですよーと、言っていた夢の水素が、そろそろ身近に感じられるようになったわけである。実際、先見の明があるBMWは液体水素を燃料とする水素自動車をベルリンで公開、ガソリン併用の水素カーに関してはマツダも2006年実用化(この場合気体水素)している。といっても、本当の意味での実用化はいつのことやら。たとえば、水素スタンドは日本では一箇所しかなく、水素補給車を持ち込むしか手がないのが現状。
日本は、エネルギーに関しても、後手後手にまわっているが、環境問題は避けて通れない、大きな地球問題であろう。
それに 夢をからめた能城さん、 是非私もその夢を共有してみたいものだ。
この話をまとめながら、 じゃ自分はというと、 微力ながらも、今後も国際貢献を粛々と継続、そして深めていきたいと、 あらためて思うこの頃である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・追記
2011年秋
能城さんとは頻繁に会っていたわけではないが、数十年前からのお付き合い。 振り返れば、ニューオータニといえば、能城さん、能城さんといえばニューオータニという具合に、 表裏一体のイメージだった。
残念ながら最近余り都心のホテルに寄る事はなかったが、 久しぶりに 上智大の土手をウォーキングがてら通ったのでその延長でホテルニューオータニの 能城さんが かつて ”リッツ ショップ”としてお店を経営していたところ(フロント階)、そして 3階にある、ベビールームを 2011年夏 訪れた。 風の便りに、入院したようなことはかつて聞いたような気もするが、生涯独り身ということもあって、尋ねる人も思いつかず、また尋ねるのも怖く・・・、 結果は予想に反しなかった。
いろいろなことを思い出したと同時に、 もっともっと多くの人に 彼女の存在を知ってもらいたかった、そして、
もっともっと夢を語ってもらいたかった・・・
今頃 天国でもハンドルをにぎっているんでしょうか???
それとも、千の風になって 地球のはるか上空から青い地球を見守っているのでしょうか??
1935年生まれ 〜2009年2月6日 能城律子73歳で永眠
スポンサー探しのときは微力ながら私も動きましたが、 こうなってみると 当時もっとしてあげられることがあったのではないかと思ってしまうほど存在感のある方、そして包容力に満ち溢れた方でした。
たまたま知り合いがNHKラジオに出演たしたときの能城さんのインタビュー音声を送ってくれていたので参考までに下にUp↓
NHKに出演したときの能城さんの肉声(2008.5.30)
〜〜最終稿として 文追加。 夢はまだまだ (引き継がれて)続く 〜〜
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